ESSAY
渦
うず
したいことは見つからないが、
できるようになりたいことなら、いくらでもある。
- 判型
- A6・文庫サイズ 174ページ
- 構成
- 三部構成(旅・家・己) 全13章
- 価格
- 1,000円
- 頒布
- 文学フリマ大阪14 2026年9月13日(日) し-35
- 通販
- Amazon(ペーパーバック・Kindle)
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プロローグ
渦
自分が何者なのか、わからない。だが自分が何者か、なぜ知る必要があるのか。
人間とは、互いの教養を掛け合わせて新たな価値を生み出せる存在である。そのため、外部へ関心を向け、大義や教養を持ち寄って世界に関わっていく必要があるし、大義を持っていなければ、会話の土俵にすら立てないと感じる。画面を開けば他人の生活や成果が数字で可視化され、日常的に自分の存在価値を証明し合っている。
記号として、物語として成立しなければ存在できないという恐怖。誰に命令されたわけでもないのに、何者かにならなければならない、価値を生み出さなければならないと勝手に焦り、自己嫌悪に陥っている。そうした呪いの声が濁流のように押し寄せて、自分の輪郭を溶かしていく感覚を、私は渦と呼んでいる。
自分が何者かを決めなければならないと思い込み、決められない自分に苛立ち、それでもとにかく手足を動かし続ける。渦から逃れたくて必死に泳いでいる。だが、ふと気づく。この渦は、本当に外側にあるのだろうか。もしかすると、自分の頭の中で描いている幻なのかもしれない。それでも私は渦を感じ、渦の中で泳ぎ続けている。幻だろうと実在だろうと、溺れそうな感覚は本物だからだ。
そして、この気持ちの悪さは、おそらく私だけのものではない。画面の向こうで他人の人生が光って見えるたびに、自分の足元が揺らぐ。何者かになれという声に急かされながら、何者にもなれない自分を持て余す。厄介なのは、その声が外からの命令ではないことだ。君ならできる、限界はない、と肯定の顔をして内側に入り込んでくる。肯定されているはずなのに、気づけば自分で自分を追い込んでいる。これは個人の弱さではなく、いまの時代が静かに抱えている病なのだと思う。私がここに書くのは、あくまで私個人の泳ぎ方の記録だが、同じ水の中にいる誰かの目に留まることがあれば、それは偶然ではないはずだ。
ひょんなことから、文学フリマ大阪で本を出すことになった。何を書こうかと考えたとき、自分の資産と呼べるものを作りたいという動機が、長年の引っ掛かりと同じ根を持っていることに気づいた。何者かにならなければならない。好きなことを見つけろ、将来を描け。そういう言葉にずっと縛られてきた自分が、では何を持っているのかを棚卸しするつもりで、この文章を書き始めた。
私には、したいことがない。いや、正確には、わからない。ないのか、あるのに自分で見えていないだけなのか、その判別すらつかない。だから私は、もがくように何にでも手をつけて、自分の「好き」を探し続けている。
要するに、自分探し中の三十五歳である。バックパックを背負って海外を放浪する二十歳ならまだ絵になるが、山の上に家を買い、妻と子どもを抱えた三十五歳の男が、いまだに自分を探している。
だが私の矢印は、社会ではなく自分に向いている。大義に至る前の段階で、そもそも自分が何者なのかがわかっていない。本来なら、自己を知り、社会とのつながりを知覚し、そこから大義を見つけて生きる道にする。それが順当な順序なのだろう。なのに私は、大義という言葉だけを遠くに見て、それを持っている人間と自分との距離に怯えている。目的があって道程があるはずなのに、道程を描かなければという概念だけにとらわれている。大義に至らない人間が、自分を形成するためにもがいている。アイデンティティの話など、つまるところ自分にしか関係のない内向きな営みだ。その自己嫌悪も込みで、これが今の私である。
朝の七時半、マクドナルドの片隅でキーボードを叩いている。騒がしい店内の音や、人々の話し声が、適度な雑音となって集中を助ける。画面の外側にある店内の喧騒や他人の視線がすべて遮断され、私とテキストだけの密室が完成する。ここで私はただキーを叩く。
夢とか、目標とか、五年後のありたい姿とか、そういうものを思い描こうとすると、頭の中が白くなる。会社で予定表を書けと言われるたびに苦しんできたが、三十五年生きてようやく理由がわかった。予定表というのは、未来にしたいことの時刻表である。書き込むべき「したいこと」を、私はそもそも持っていないのだ。段取りが下手なのではない。時刻表に載せる行き先が、最初からないのである。
ついでに言うと、私には過去の記憶も極端に少ない。同級生の名前も、学生時代に自分が何をしていたのかも、頭の中のアルバムはほとんど白紙だ。過去の思い出話ができず、未来の目標も描けない。残された持ち物は、今ここにある身体ひとつだけ。それが私という人間の、身も蓋もない仕様である。
したいことがないくせに、私の毎日はやることで溢れ返っている。家の修繕、子どもとの時間、仕事、増え続けるやることリスト。欲望がないのに、手足だけは常に動いている。この奇妙な矛盾が、たぶんこの本の全部である。
山の上の家から駅まで急坂を下り、帰りは「山登り」をこなす通勤の、電車の中でも画面を開く。何かを組んでいるか、こうして文字を垂れ流しているか、どちらかだ。高校時代の通学電車では、友達と携帯ゲーム機を持ち寄って、ストリートファイターのような対戦ゲームに無我夢中で興じていた。熱中しているうちに長い通学時間はどこかへ消え、気がつけば目的地に着いていた。やっていることは変わっても、この没頭の感じだけは、今もあの頃と同じである。ただ与えられた時間を消費するのではなく、自分だけの熱狂を無理やり自作する。
そうやって生きてきたのだと思う。したいことを深く考えてみても、やっぱりよくわからない。わからないので、とにかく手を動かして進めてきた。なんでもやってみる。
玄関に下駄箱がなければ作る。作るための板の割り付けが面倒なら、それを計算するアプリごと自作する。山の上の古い家を買い、漆喰を練り、タイルを切り、図面と現物のあいだで狂っていく寸法は、その場その場で帳尻を合わせてきた。
何かを作りたいわけではない。完成した下駄箱そのものには、実はそれほど興味がないのだ。私が憧れているのは「作れる」という状態のほうである。何でも自分の手で作ってしまう人が、昔からかっこよくて仕方がない。私は下駄箱が欲しかったのではなく、下駄箱を自分で作れる人間になりたかったのだ。金を払えば済むことを、あえて自分の手でやってみる。しんどいし、時間もかかる。だが経験値になって、安くついて、そして楽しい。作品ではなく、腕。目的地ではなく、乗り物。したいことは相変わらず見つからないが、できるようになりたいことなら、いくらでもある。行き先のない私は、せめて乗り物を鍛えることにしたのだ。
これは自慢の本ではない。むしろ逆だ。やりたいことを決めて、そこへ向かって邁進している人が、私にはまぶしい。私は、自分のやってきたことを並べて見せることでしか、自分を語ることができない。つまりこの本は、そういう臆病な人間の、自己紹介のやり直しである。
人生は物語ではない、という言葉に私はひどく共感する。誰かの人生を語るとき、人はつい筋を通そうとする。前後を繋ぎ、因果を整え、道理を纏わせる。そうして語られた人物は、いつのまにか記号になる。こういう人間だ、と固まった像ができあがると、今度はその像が本人の選択を縛りにくるのではないか。目に見えないはずのものを拵え、妖怪を飼ってしまうのではないか。要するに、物語は呪いになる。だからこの本で私が書いておきたいのは、渦のような環境の中で、私がそのつど反射的にどう動いたか、ただそれだけの記録である。読み終えたあとに何か残るとしたら、それは物語ではなく、私が置いていった具象の粒だと思ってほしい。
それでも、自分と向き合い続けて出てきた結論は、拍子抜けするほど単純だった。誰かが決めた物差しで自分を測るのを、やめればいい。それだけである。成長しろ、何者かになれ。その声に従って走り続けても、走った先で待っているのは次の声だ。できるはずだ、まだ足りない、もっとやれる。応援の形をした追い立てに自分を差し出し、自分で自分をすり減らしていく。その循環の先に、誰かが私の人生の責任を取ってくれるわけではない。
だが、私は降りていない。渦の中にまだいる。他人の土俵で勝ち負けを競うゲームの息苦しさを知りながら、そこから完全に足を洗えたわけでもない。渦を感じ、自分を削られ、もろく、苦しみながら、それでも乗り続けている。諦めたと言われればそうかもしれない。だが諦めるとは、もともと道理を明らかに見極めるという意味の言葉だ。そもそもこのゲームは、自分が本当にやりたかったものだったか。その問いだけは手放さないようにしている。そうやって自分を削られながらも、手元に残っている景色がある。目の前の漆喰と、雨の谷と、靴箱に並んだ子どもの長靴。まぶしい誰かに追いつくためではなく、ただそれを面白がること。自分の手が届く範囲に力を戻して、自分の人生の手触りを、自分の手で引き受けること。立派な思想ではない。そうとしか生きられなかった人間の、開き直りに近い肯定である。
過去を持たず、未来も描けない男の、現在だけでできた記録。
だからこそ、私は私に期待したいと思っている。この先、どうやって生きていくのか。先を決めないからこそ、楽しみである。
今日も、小さな画面で、記録を続けている。
——ここから先は本文で。
第Ⅰ部 旅 / 第7章(冒頭のみ)
雷で死にかけた
夏が来るたびに、あの旅を感じて浮足立つ。
具体的なことは、ほとんど覚えていない。それでも、小学生の頃からよく連れて行ってもらった夏の記憶は、身体に染み付いている。夜の九時頃に大阪を出て、夜中に徳島へ着く南海フェリー。乗り込むなり船内の雑魚寝スペースを急いで確保し、薄い毛布一枚で短い仮眠をむさぼる。床から背中に伝わってくる、エンジンの低い振動。港に降りてから高知へ向かう深夜の山道は、後部座席で爆睡していた。それでも朝、目の前に開ける海と静かな波の音、森の小道を抜けた先にふいに広がる景色には、毎度魅了された。小学校、中学校、高校、そして大人になってからも、この旅の記憶だけは髄のあたりに書き込まれている。あの南海フェリーの航路がいずれ廃止されるというニュースを聞いたときは、思い出が消えるというより、自分の体の一部が取り壊されるような寂しさを覚えた。

——ここから先は本文で。
収録内容
本に並んでいる順です。見出しと、書き出しの一行。
- Ⅰ.旅 Ⅰ.旅
- 第9章 下調べを捨てる旅あらかじめ調べ尽くした予定調和の旅は、現地での発見に出会いにくく、単なる下調べの「答え合わせ…
- 第11章 走ることで身体に刻む私は、自分の身体能力をテストするために、練習ほぼゼロの状態で大阪マラソンのスタートラインに立…
- 第8章 雨で雑念を洗い流す私にとって、休みというものは極めて貴重で、絶対に無駄にできない不可侵の領域だった。
- Ⅱ.家 Ⅱ.家
- 第1章 ライフイベントは経験値の宝庫玄関の寸法をミリ単位で測り終え、私はホームセンターの木材カットサービスへと向かった。
- 第2章 全てを予測するのは不可能レンジフードの選択、ステンレスカウンターの穴あけ位置など、部材の手配から排水やダクト穴の建築…
- 第6章 経験すれば順応する壁は漆喰にすると決まった。調べればすぐに「漆喰うま〜くヌレール(日本プラスター)」という練り…
- 第5章 債権債務の重要性そもそも、潤沢な貯金があって家を買ったわけではなかった。春先に物件を探し始め、内覧の最初の一…
- 第4章 持っているってどういうこと?その間、私はキッチンの造作やタイルの施工、その他無数の現場合わせの作業に追われ続けていたのだ…
- 第3章 責任の範囲が渦を育む私は過去の思い出をあまり深く覚えていない。アルバムをめくるような回想は、頭の中では数秒で途切…
- Ⅲ.己 Ⅲ.己
- 第10章 固着せず、変化したい私は我が子ですら、自分とは独立した個体というよりは、自らの身体の拡張(自分の技術を試す対象)…
- 第12章 痛みを知らないどれだけ予定を組み、道具を作り、生活の仕組みを整えたところで、人間の身体だけはどうにもコント…
- 第13章 自分を形成していく山の上の家に越して、いちばん変わったのは通勤時間だった。片道二時間弱、往復で四時間。人生の可…
- エピローグ 三十五歳の私を本棚に固定する行政の手続きから、ウッドデッキの図面引き、ベランダの鉄柵のサビ落とし、二階の床浮き補修といっ…